第一志望の高校の掲示板に、自分の受験番号がなかった日。
世界が真っ暗になり、目の前の景色が歪む。
これまで積み上げてきた数ヶ月、数千時間の努力がすべて無価値に思え、涙が止まらなくなる。
励まそうとしてくれる親の顔を見るのすら辛い。
あの日の絶望を前にして、「不合格には必ず意味がある」「神様がくれた試練だ」「この経験が君を成長させる」といった、大人の優しい美談を私は語るつもりはない。
そんなものは、残酷な現実から目を背けるための、ただの安易な慰めだ。
現場で17年、子どもたちの涙を見てきたからこそ、私は誤魔化さずに言いたい。
不合格は、ただただ辛い。悔しい。理不尽だ。
そして、その傷を何ヶ月も、あるいは何年も引きずる子だっている。
あの日の涙を、最初から綺麗な思い出に変換することなんて、誰にもできはしない。
では、不合格とは一体何なのだろう。
人生からのメッセージだろうか。運命だろうか。
違う。
不合格とは、合格と同じく、ただの「結果」である。
■ 人生の「身分証明書」にするな
17年間、熊本の教室で子どもたちの合否とその後の人生を見届け続けてきて、私は確信していることがある。
その後の人生を大きく分けるのは、「合格したか、不合格だったか」ではない。
あの日の結果を、いつまで「自分の正体」にしてしまうか、だ。
熊高に落ちた。第一志望に行けなかった。
その事実は変わらない。消えない。歴史は書き換えられない。
しかし、その結果を受け取ったとき、
「自分は受験に負けた、価値のない人間だ」
と、不合格通知を自分の人生の「身分証明書」のように胸に掲げ、自ら歩みを止めてしまう子が 一定数いる。
一方で、「死ぬほど悔しい。でも、俺の人生はここで終わりじゃない。次へ行く」と、ボロボロの足で次の新しい地面を踏みしめ、前を向く子もいる。
5年後、10年後、二人の間に生まれている決定的な差は、進学した高校の偏差値ではない。
「目の前の結果に、自分の人生のすべてを定義させなかった」という、その生き方の強さなのだ。
■ 物語は、そこで終わっていない
不合格は、人生の失敗ではない。
ただの、一回きりの結果だ。
だから、あの日番号がなかったからといって、あなたがこれまで紡いできた努力の価値が消えるわけではない。
毎日必死に机に向かった事実は、あなたの細胞に、地頭に、確実に刻まれている。
第一志望に落ちた日、君は失敗者になったのではない。
ただ、君の人生の第一章が、君の望んだ形では終わらなかっただけだ。
物語は、そこで終わっていない。
私たちはいつだって、次のページの真っ白な行に、新しいペンで自分の物語を書き始めることができる。
受験という名の「最初の実戦訓練」の価値は、その1ページ目を、自らの意思でめくる強さを手に入れることにあるのだ。
次回、
【受験とは何か④】〜受験が終わった日に残るもの〜
偏差値でもない、通知表でもない、合格証書でもない。
すべての入試日程が終了したあの春の日に、親子の胸に静かに残る「たった一つの本物の記憶」について。

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