〜勉強ができる子より、失敗できる子〜
塾の自習室を回っていると、ある奇妙な光景に遭遇することがある。
机に向かって熱心にペンを動かしている生徒の、その手元。
よく見ると、問題集の解答解説の冊子が、ノートの影に不自然に隠されている。
あるいは、丸付けの赤ペンが、問題も読まずにただ淡々と「○」だけを刻んでいく。
大人はこれを「サボり」や「ずるさ」と片付けがちだ。
「答えを写すなんて、勉強の意味がないだろう」と。
しかし、現場で彼らの震える指先を見つめてきた私には、それがずるさには見えない。
むしろ、張り詰めた恐怖に怯えているように見える。彼らはサボりたいのではない。
「できない自分」を、誰にも見られたくないのだ。
小学校ではいつも優秀で、周囲の期待を感じ取ってきた子ほど、ある日突然、この「隠蔽」を始める。
分からない問題を質問しなくなる。
テストの点数を言わなくなる。
間違い直しを嫌がる。
能力が低いからではない。
怠けているからでもない。
その子の中でいつの間にか、失敗が「次へ進むためのヒント」ではなく、「自分という商品に付いた致命的な傷」になってしまったからだ。
では、なぜこれほどまでに失敗を恐れる子が作られてしまうのだろうか。
恐ろしいことに、これは親が子どもを愛していないから起きるのではない。
それどころか、親が何か特別なプレッシャーをかけたからでさえない。
子どもは、大人が思っている以上に聡明で、そして脆い。
親から言われなくとも、勝手に周囲と自分を比較し、勝手に期待を察知し、勝手に傷ついていく。
学校での順位、先生の視線、あるいは隣の兄弟が褒められている姿。
それらを敏感に集めた結果、子どもは自らひとつの思い込みを編み上げてしまう。
(100点を取る僕だから、愛されるんだ)
(みんなより早くできる私だから、価値があるんだ)
親が「そんなこと思わなくていいのに」と否定したところで、子どもは愛されたいという本能ゆえに、そう解釈してしまう。
そうして子どもは知らず知らずのうちに、「できる自分」という仮面を被り、それを演じ続けざるを得なくなるのだ。
■ 仮面の下の孤独
仮面を被った優等生にとって、難問に出会うことは、自分の存在を脅かす恐怖に等しい。
「分からない」という状態は、自分の無能さを証明する証拠になってしまう。
だから、彼らは必死にそれを隠す。
答えを写してでも「できている自分」を捏造し、周囲の期待を繋ぎ止めようとする。
子どもを本当に苦しめているのは、問題の難しさでも、失敗そのものでもない。
「失敗してはいけない自分」を、たった一人で背負わされていることだ。
間違いを恐れる子は、失敗そのものが怖いのではない。
失敗した、無様で、頼りない自分を、大好きな親に見られた瞬間に、その愛情を失ってしまうのではないかという「孤立」が怖いのである。
子どもは本来、仮面を被りたいわけではない。
ただ愛されたいだけなのである。認められたいだけなのである。
だから私たち大人の仕事は、子どもに上手に仮面を作らせることではない。
社会の中でいつの間にか被ってしまったその仮面を、いつでも外して大丈夫だと思える「居場所」を作ることだ。
■ 仮面を外せる唯一の場所
では、家庭をその「居場所」にするために、私たちは何ができるのだろうか。
まずは、親の側が「失敗への視線」を完全に変えることだ。
子どもが間違いを隠そうとしたとき、あるいは激しく取り乱したとき、
「なんで嘘をついたの」と責めてはいけない。
ただ、こう伝えてほしい。
「間違えたね。面白いところが見つかったね。これでまたひとつ、強くなれる場所が見つかったね」
点数が良くても悪くても、親の眼差しが1ミリも変わらないこと。
失敗した我が子を見つめる目が、100点を取ったときと同じように、優しく、穏やかであること。
間違いを直視できる子は、失敗が怖いのではない。
「失敗しても、自分の価値を疑わなくていい」という圧倒的な安心感を、家庭という背後に持っているからだ。
その安心感があるからこそ、彼らは自分の欠点を機嫌よく認め、前シリーズで語った【修正のOS】を平然と立ち上げることができる。
小学生時代とは、学力を作る時期ではない。
その後の人生で何度も訪れる「できない自分」と出会う日のために、仮面を外して心の土台を作る時期なのである。
しかし現実には、多くの家庭で、この土台が知らないうちに削られていく。
それも、子どもを励まそうと口にする、あの「褒める」という行為そのものによって。
次回、
【小学生時代の思い込み編③】〜褒めすぎが奪うもの〜
を考えてみたい。

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