【熊本からの大学受験】小学生時代の思い込み編④〜自信と自己肯定感は違う〜【いろはにほへと:第17回】

〜自信と自己肯定感は違う〜

「自信がついたら、やってみます」

「もう少し自信が持てるようになったら、挑戦します」

​大人の社会でも、あるいは受験を目前に控えた教室でも、私たちはこの言葉を日常的に耳にする。

新しいプロジェクトへの立候補、転職や起業、あるいは志望校への挑戦。

私たちはいつも、「自信」という切符が手に入るのを待ってから、スタートラインに立とうとする。

​しかし、ひとつの残酷な真実がある。

どれだけ待っても、「不安が完全に消えるほどの自信」など、この世には存在しない。

​新しいことに挑む前、失敗する可能性を目の前にしたとき、不安になるのは当然だ。

どれほど実績を残した経営者も、世界的なスポーツ選手も、そして受験生も、誰もが等しく震えている。

​では、新しい挑戦を前にして、一歩を踏み出せる人と、足すくみを起こして諦めてしまう人の違いは、いったいどこにあるのだろうか。

​■ 条件付きの数字、動かない地面

​勝負を分けるのは、私たちが混同しがちな2つの感情の差である。

​ひとつは、「自信」。

これは「自分にはできると思える感覚」だ。

過去の成功体験や他者からの評価、100点のテストという根拠(数字)をベースにして育つ。

だからこそ、成功すれば増えるが、失敗すれば一瞬で消えてなくなる。

​もうひとつは、「自己肯定感」。

これはできるかできないかという条件に関わらない、「できても、できなくても、自分の価値は1ミリも変わらないという感覚」だ。

どんな嵐が吹いても動かない、内側の地面のようなものである。

​私たちは、よく子どもに「自信をつけさせよう」とする。

しかし、外側の条件によって増減する自信ばかりを急がせることは、本当にその子を強くしているのだろうか。

むしろ、「できないかもしれない場所(挑戦)」から、子どもを遠ざけてはいないだろうか。

​■ 私たちは、何を失うのが怖いのか

​起業をためらう大人も、分からない問題を前にして鉛筆が止まってしまう子どもも、本当に恐れているのは「失敗という現象」そのものではない。

​本当に怖いのは、失敗したことによって、自分の存在価値までが一緒に失われてしまうことなのだ。

​(間違えたら、頭が悪い人間だと思われてしまう)

(失敗したら、今まで積み上げてきたものがすべて無駄になる)

​もし、自分の価値が成績や役職、他者からの「さすが」という声に結びついていると、一度の失敗は自分のすべてを否定するテロになる。

だから、人は新しい行動を起こせなくなる。

​逆を言えば、もし「失敗したところで、自分の価値は何も失われない」と心から信じることができたら、人はどれほど自由になれるだろうか。

​同じ失敗をしても、すぐに立ち上がって歩き出せる人は、自信に満ち溢れているからではない。

「何を失っても、自分は大丈夫だ」という、圧倒的な地面を踏みしめているからだ。

​■ 心の土台を作る時期

​小学生時代とは、ただ要領よく「できる自信」を積み上げる期間ではない。

その後の人生で何度も訪れるであろう「できない自分」と出会う日のために、何があっても揺らがない地面を作る時期なのだ。

​大人のあなた自身は、いま、何を失うのが怖くて、一歩を踏み出せずにいるのだろう。

​そして、子どもが「失敗しても自分の価値は揺らがない」と信じられたとき、物語は次のステージへと動き出す。

​人は、自分の価値を信じられたときに初めて挑戦できる。

では、人はなぜ自ら動き始めるのだろう。

誰かにやらされるのではなく、自分の意思で歩き出す子どもたちは、いったい何を持っているのだろうか。

​次回、

【小学生時代の思い込み編⑤】〜自走する子の原点〜

において、この章の最後の景色を、そしてこの連載の核心を見に行きたい。

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