〜「信じる」の本当の意味〜
あるお母さんがいた。
中学3年の冬、入試を目前に控えた時期。
志望校の欄に書かれた判定は、模試を何度受けても、最後まで「E判定」のままだった。
私はそのお母さんと、塾の面談室で何度も、本当に何度も頭を突き合わせて話を狂おしいほど重ねた。
お母さんは、今にもこぼれ落ちそうな涙を必死にこらえながら、震える声で私にこう言った。
「先生……本当に、このまま受けさせていいんでしょうか。傷つくだけなんじゃないでしょうか」
私は、答えることができなかった。
なぜなら、前回で書いた通り、未来は誰にも管理できない。
受かる保証など、世界のどこにも転がっていなかったからだ。
そして、合格発表の当日。
その子の受験番号は、掲示板になかった。
その子は、落ちたのだ。
この話を聞いて、胸が苦しくなった親御さんも多いかもしれない。
「ほら見たことか、やっぱり親が先回りして、失敗を止めなければいけなかったじゃないか」と。
だが、塾人として17年間、合格発表の光景を毎年見続けてきた私が、どうしてもここで伝えなければならない事実がある。
私の17年の合格発表の中で、第一志望に落ちた子はたくさんいる。
しかし、それによって人生が終わってしまった子は、ただの一人もいなかった。
■ 信頼とは、結果の保証ではない
私たちが我が子に対して「信じたいのに、どうしても信じられない」と苦しんでしまうのは、当然のことだ。
なぜなら私たちが無意識に思っている「信頼」とは、「この子はきっと合格する」「きっと失敗しない」という、結果の保証になってしまっているからだ。
しかし、そんな都合の良い保証を約束してくれる大人など、この世にいない。
だから親は不安になり、ハンドルを奪い取り、先回りして石ころを拾おうとしてしまう。
ここで、順番をもう一度ひっくり返したい。
信頼とは、「この子は失敗しない」と信じることではない。
「この子は、たとえ失敗したとしても、その痛みのなかから必ず何かを学び、また自分の足で歩き出せる人間だ」と信じることだ。
私がこれまで見てきた子どもたちの中で、本当に強く、自分の人生を輝かせていったのは、けっして「一度も転ばずに合格した子」ではなかった。
むしろ、第一志望の不合格という人生初の大きな挫折に直面し、泥まみれになって涙を流しながらも、そこから「じゃあ、自分は次の場所でどう生きるか」を真剣に考え、自分だけの物語を歩き始めた子たちだった。
子どもには、親が思っているよりも、遥かに逞しい生命力が備わっている。
親がすべきなのは、その生命力を先回りして管理し、去勢することではないはずだ。
■ 転ばせないこと、帰ってくる場所
私たちは、子どもが転ばないように、いつも先回りしてルート上の石ころを必死に拾い集めてきた。
傷つかないように、泥がつかないように、過保護な盾になろうとしてきた。
けれど、もしかすると親の本当の役目とは、子どもを「転ばせないこと」ではないのかもしれない。
わが子が自分の足で歩き、自分の責任で挑戦し、そして派手に転んで傷ついて帰ってきたときに、
「痛かったね。でも、あなたは大丈夫。またいつでも歩き出せるよ」
と、いつでも無条件に迎え入れてあげられる「安心の地面」であり続けること、それだけなのかもしれない。
他人のスコアボードを捨て、未来の管理を手放したとき、私たちの前に、一人の小さな「一人の人間」が立っている。
次回、本シリーズ最終回。
【親はなぜ焦るのか⑤】〜親の卒業式〜
子どもが大人になる日。
そのとき本当に「管理者」を卒業するのは、子どもではなく、親のほうなのかもしれない。

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