【熊本からの大学受験】親はなぜ焦るのか①​〜親は何を恐れているのか〜【いろはにほへと:第24回】

​〜親は何を恐れているのか〜

​夜、11時。

子どもはすでに自分の部屋で眠りについている。

​静まり返ったリビングの机の上には、昼間、子どもと一緒に確認した「模試」の結果表が置かれている。志望校の欄には、冷徹な「C判定」の文字。

​数時間前、夕食の席では「まだ秋だし、これからいくらでも挽回できるよ」と、我が子を励ますために明るい声を張っていた。

笑顔さえ作ってみせた。

しかし、一人きりになった途端に、抑えきれない焦燥感が胸を締め付ける。

スマートフォンの画面を開き、慣れた手つきで「熊本 高校 偏差値」「〇〇高校 ボーダーライン」という言葉を何度も、何度も検索し直している。

画面の青白い光に照らされたその表情は、ひどく張り詰め、疲弊している。

​熊本の受験現場で、私はこのような親御さんの姿を、それこそ数え切れないほど見つめてきた。

​「早く勉強しなさい!」と子どもを怒鳴りつけては、夜、その寝顔を見ながら「またヒステリックに怒ってしまった」と自己嫌悪で涙を流す。

子どもを傷つけたい親など、この世に一人もいない。

みんな、我が子の幸せを心から願っている、優しくて真面目な「教育熱心な親」なのだ。

​だからこそ、私は塾人として、誰よりも苦しんでいる彼らのそばに立ち、共に考えてみたい。

​私たちは、いったい何をこれほどまでに恐れているのだろうか。

​■ 子ども以上に眠れない夜

​私は長い間、親たちがこれほどまでに焦り、取り乱してしまうのは、ひとえに「子どもの将来が心配だから」だと思っていた。

もちろん、それは1ミリの嘘もない本物だ。

良い環境で学んでほしい、将来選択肢に困らない人生を送ってほしい。

その純粋な愛情が、親御さんたちを駆動させている。

​だが、17年間この土地で受験の現場に立っていると、それだけではどうしても説明のつかない、あまりにも激しい「親たちの涙」や「怒り」を何度も目撃してきた。

​中学3年の秋、志望校を熊高にするべきか、あるいは第二高校に下げるべきか。

実は、子ども本人のほうが意外なほど冷めていたり、落ち着いて現実を受け止めようとしていたりする。

それなのに、親のほうが「それじゃ困るのよ!」「あなたの人生がかかっているのよ!」と、パニックに近い状態で眠れなくなってしまう。

​親たちの胸を本当に締め付けているのは、他人の目を気にするような見栄や承認欲求ではない。

その奥底にあるのは、もっと苦しい「罪悪感」だ。

​「私の育て方が悪かったのではないか」

「あのときもっと早く、塾に入れてあげていれば」

「自分がもっと厳しく声をかけていれば、この子の人生は変わっていたのではないか」

​教育熱心な親ほど、すべての責任を自分一人で背負い込み、「この子の人生を守れなかった親」になることを恐れて、人知れず恐怖に震えている。

そう思ってしまうほど、私たちは四高(よんこう)のブランドや、他者からの評価に囲まれたこの街で、張り詰めた糸の上を歩かされているのだ。

​■ 借り物の安心、親の願い

​私たちは、机の上の模試の判定表を見ているつもりだった。

​けれど本当は、私たちはまったく別のものを見ていたのかもしれない。

​子どもという存在、子どもが手にする「結果」という外側のラベルを通して、自分自身の「親としての正しさ」を証明し、安心を借りようとしていたのではないだろうか。

​もし、そうだとしたら。

​私たちが今、目の前の模試の判定表を見て震えている理由が変わってくる。

向き合うべき相手は、子どもの成績でも、勉強時間でも、スマホの利用制限でもない。

​私たちの心の中の、もっと古く、もっと深い場所に潜んでいる、「親である私自身の不安」そのものなのかもしれない。

​次回、

【親はなぜ焦るのか②】〜我が子を信じられない理由〜

​なぜ私たちは、これほどまでに「不安」に支配されてしまうのか。その心の奥底へ、さらに静かに歩みを進めたい。

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