〜親の卒業式〜
春。高校入学から、数週間が経った何でもない平日の夜。
夕食が終わり、お風呂から上がった子どもは、制服を脱ぎ捨てて自分の部屋へと戻っていく。
しばらくすると、自室から友達とLINEで話しているような、楽しそうな笑い声が微かにリビングまで聞こえてくる。
ふと見ると、リビングの棚の上には、高校から出された分厚い春休みの課題が置かれたままだ。
おそらく、今夜はもう手を付ける気はないのだろう。
数ヶ月前、あのはりつめた中学3年の冬であれば、私はきっと耐えきれずに声を荒げていただろう。
「課題は終わったの?」
「高校は最初が肝心なのよ、スマホばかり見ていて大丈夫?」
言いたくないわけではない。
今だって、その言葉は喉元まで出かかっている。
けれど、その夜、私はその言葉を、胸の奥へとそっと飲み込んでみる。
そして、静まり返ったキッチンで気がつくのだ。
ああ、私はこれまで、この子の人生を代わりに生きようとしていたのかもしれない、と。
■ 親の本当の仕事
私たちは、我が子を愛するがゆえに、いつの間にか「子どもを成功させること」が親の第一の義務であるかのように思い込んでしまう。
しかし、本当にそうだろうか。
子どもがどんなに素晴らしい結果を出しても、それは親の成果ではない。
子どもがどんなに派手に転んで遠回りをしても、それは親の失敗ではない。
なぜなら、どこの制服を着ていようとも、その人生はどこまでも「子どものもの」だからだ。
親の本当の仕事とは、子どもを成功のレールに乗せることではない。
子どもが、成功しても、失敗しても、たくさん遠回りをして寄り道をしても、「これが自分の人生だ」と、自分の足で歩いていくことを、ただ許してあげること。
それだけなのかもしれない。
私はこの熊本の地で17年間、何百組もの親子を見送り、その後の人生を風の便りに聞いてきた。
第一志望の大学受験に失敗した子。
入った会社で悩み、進路を変更した子。
大学を休学して、誰も知らない世界へ飛び出していった子。
世間の物差しから見れば、「スマートな成功」とは言えない、たくさんの遠回りをした子どもたちの姿を、私は知っている。
そして17年が経った今、私の記憶に鮮烈に残っているのは、誰が熊高に受かったか、誰が済々黌の制服を着ていたか、という記録ではない。
どんなに傷つき、不器用であっても、最後は他人の目を離れ、「自分の足」で立っていたかどうか。
私の心に残っているのは、その誇らしげな一本の背骨だけだ。
子どもには、自分の物語を生きる力がある。
そして、私たち親にもまた、子どもとは別の、自分自身の物語があるはずなのだ。
■ さあ、私も
夜、11時。
リビングの灯りはまだ静かについている。
子どもは部屋で何をしているか、もう分からない。
勉強をしているのかもしれないし、まだスマホを見ているのかもしれない。
けれど、私の心は、以前ほど不安の波にのまれてはいない。
あの頼りなかった子どもは、もう自分の足で、不確実な未来の荒野を歩き始めている。
だったら、私もハンドルを手放そう。
リビングの机の上を見渡してみる。
かつてあれほど夜な夜な睨みつけ、私を焦らせ、狂わせていた模試の判定表は、もうどこにもない。
使い終わった湯のみを流し台へ片付けながら、私は鏡に映る自分の顔を見て、小さく微笑む。
「さあ、私も続きを生きよう。」
子どもが親から卒業していくのではない。
親が「管理者」という重い役割を卒業し、再び一人の人間に戻って、自分の人生を歩き始める。
それが、私たちが心の中で迎える、本当の卒業式なのだ。

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