〜順位から逃げなくていい〜
前回まで、私たちは「他人のスコアボード」を下ろし、夜も眠れなくなるほどの「過剰な責任感の鎖」をそっと手放す物語を紡いできた。
読者の中には、心がすうっと軽くなり、目の前の子どもの姿が少し違って見え始めたという方もいるかもしれない。
しかし、一晩が明け、翌朝になれば、冷酷な現実が再び私たちを待っている。
学校へ行けば定期考査があり、塾へ行けば模試のデータが配られ、志望校判定のアルファベットや、3桁、4桁の「順位」が突きつけられる。
どれだけ心が変わっても、熊本の高校受験というシステムそのものが消えてなくなるわけではないのだ。
「内面の手放しは分かった。でも、現実に順位が出る社会で、私たちはこれからどう生きていけばいいのか」
前回までを読んで、「じゃあ、順位なんて気にしなくていいんですね」と思った方がいるかもしれない。
だが私は、そうは思わない。
順位は気になる。偏差値も気になる。志望校判定だって気になる。それが普通だ。
本気で目指しているからこそ、私たちは数字に心が揺れる。
問題は、揺れることではない。
揺れたあと、その数字をどう扱うかなのだ。
だから私はここで、あえて強い言葉を使いたい。
私たちは、これから配られる模試の「順位」から、もう一歩も逃げなくていい。
■ 道具としての比較
比較は、悪ではない。
本当に苦しいのは、「比較によって出た数値や順位を、自分の人生の価値そのものにしてしまうこと」なのだ。
例えば、私たちが車を運転するとき、スピードメーターやナビの数字を見る。
「時速何キロ出ているか」「目的地まであと何キロか」。
それは、安全に、正しく目的地にたどり着くための単なる「道具(データ)」にすぎない。
メーターの数字が低いからといって、自分の人間としての価値が否定されたと感じるドライバーはいないはずだ。
受験における「順位」や「偏差値」も、全く同じだ。
それは、今の自分がどの地点にいて、志望校という目的地に対してどのくらいの距離があるのかを教えてくれる、極めて優秀な「ものさし(道具)」にすぎない。
主役はあくまで、あなた自身だ。
順位という道具に支配されて怯えるのをやめて、あなたが順位という道具を「使いこなす」側に回ればいいのだ。
■ 囚われを捨てた、本当の視線
「120番」という数字が出たとする。
他人のスコアボードに囚われているときは、その数字を見た瞬間に「あの家の子より下だ」「これじゃあ四高に行けない」「私はダメな人間だ」と、心が激しく揺さぶられ、傷ついていた。
しかし、物差しを一度手放した人間は、同じ「120番」という数字を見ても、全く違う反応をする。
「そうか、今の私は120番の地点にいるんだな。じゃあ、行きたいあの高校へ行くためには、あとどこの単元を埋めればいいだろう。よし、もう一度解き直してみよう」
そこには、他人の目も、見栄も、過剰な罪悪感もない。
あるのは、「今の自分の現在地」と「自分の行きたい未来」を真っ直ぐに見つめる、静かで力強い視線だけだ。
そして、ここから不思議なことが起こる。
他人のスコアボードを下ろした子どもほど、実はここから爆発的に伸びていく。
なぜなら、その子はようやく「他人に勝つため」というガソリンの切れる偽物のエネルギーではなく、「自分が行きたい場所へ行くため」という、本物の燃料で勉強を始めるからである。
次回、
【それでも受験は続いていく②】〜勝ちたい気持ちは否定しなくていい〜
私たちは長い間、「競争心」を悪者にしすぎていたのかもしれない。
他人の目を離れたとき、子どもの胸の奥底から湧き上がる、本物の「向上心」の正体について。

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