〜私たちは何を信仰しているのか〜
「とりあえず、熊高(くまたか)に入っとけば安心だから」
「せめて、済々黌(せいせいこう)の伝統に守られてほしい」
熊本で子育てをしていれば、この言葉を耳にしない年はない。
学校の懇談会で、塾の面談室で、あるいは保護者同士の何気ない会話の中で、これらの言葉は一種の「絶対的な正解」として、ごく自然に交わされている。
だが、私は現場の人間として、あえてこの静かな聖域に問いを立てたい。
本当に、そうなのだろうか。
熊高に入れば、済々黌の制服を着れば、私たちの人生は本当に「安泰」なのだろうか。
もちろん、これらの伝統校が持つ進学実績や環境の価値を否定するつもりは全くない。
それは厳然たる事実であり、子どもたちが努力して手に入れるべき素晴らしい切符だ。
しかし、親たちの口から漏れる「熊高に入っとけば安心」という言葉の響きには、単なる学校選びを超えた、もっと切実で、もっと重い感情が貼り付いているように思えてならない。
ここで、ひとつの危険な問いを置いてみたい。
「熊高に入れば安心」と口にするとき、私たちは本当に子どもの未来を心配しているのだろうか。
それとも、「熊高に入れなかった親」になることを恐れているのだろうか。
誰もが高校の序列を気にするこの街だからこそ、四高(よんこう)という名札は、あまりにも強固で分かりやすいブランドとして機能する。
胸に手を当てて、静かに考えてみてほしい。
熊高という名前は、本当に子どもを守るための盾なのだろうか。
それとも、親である自分自身の不安や承認欲求を隠すための盾なのだろうか。
■ 高校への信仰ではなく、未来への恐怖
現代社会には、もう「ここにいけば一生安泰」という明確な正解など存在しない。
未来はどこまでも不確実で、不透明だ。
その底知れない恐怖と直面したとき、大人は耐えきれなくなってしまう。
だから、わが子に地域の最高ブランドの制服を着せることで、自らを安心させようとする。
つまり、私たちが信仰しているのは高校そのものではない。
不確実な未来への恐怖から身を守ってくれる「安心神話」なのだ。
子どもを通して、自分自身を安心させようとする大人たち。
だが、その安心の買い方には、恐ろしい副作用がある。
外側のラベルから借りてきた安心は、常に「他者からの評価」という条件付きのものだからだ。
他人の物差し、世間の評価というラベルを拠り所にして走らされた人間は、どれだけ高い山に登っても、一生安心することができない。
■ 勝ったはずの教室で
現実に、私は知っている。
私はこれまで、受験に落ちて苦しむ子どもたちをたくさん見てきた。
しかしそれと全く同じ数だけ、熊高や済々黌に受かったのに、なお苦しみ続けている子どもたちをも見てきたのだ。
私たちはなぜ、勝ったはずなのに、これほどまでに怯え続けるのだろうか。
あの合格の切符を手にしたはずの教室で、なぜ子どもたちはなおも震えているのだろうか。
次回、
【中学生時代の思い込み編④】〜勝者の不安〜。
勝利の先にある、もうひとつの檻の正体を暴きたい。

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