【熊本からの大学受験】大学受験の思い込み編⑤【いろはにほへと:第13回】

〜親のサポートが、子どもの成長を止めるとき〜

前回、高校3年間で本当に伸びる子の条件は、生まれつきの才能ではなく、「自分を修正できる力(OSを切り替える力)」であるとお伝えした。

​では、我が子をその「自分を修正できる子」へと育て、過酷な大学受験を自走させるために、親はいったい何をすればいいのだろうか。

​ここへ来て、多くの保護者が陥る最後の思い込みがある。

それが、「親が手厚くサポートし、正しい方向へ引っ張ってあげなければ、この子は自走できない」という幻想である。

​最初にお伝えしておきたいのは、ここで紹介する親の関わり方は、決して「親の怠慢や失敗」から生まれるものではない、ということだ。

むしろ逆である。我が子を深く愛し、少しでも苦労を減らしてあげたいと願う「親の優しさと熱意」が強すぎるからこそ起きる、構造的な副作用なのだ。

​今回は、この「優しさの副作用」が子どもの自走を止めてしまう典型的なパターンを見つめながら、大学受験の最後に解体すべき、親自身の思い込みについて考えてみたい。

​1. 「優しさ」が引き起こす3つの副作用

子どもを想うあまり、良かれと思ってやってしまうサポートには、時に子どもの成長の芽を摘んでしまう副作用が隠されている。

現場で特によく目にするのは、次の3つの形だ。

先回り型(困る経験の剥奪)

子どもが壁にぶつかって困る前に、親がスケジュールを管理し、提出物をチェックし、良さそうな参考書を先回りして買い与えてしまう。

しかし、自走する力(修正能力)とは、「困る ⇒ 自分で考える ⇒ やり方を変える」という試行錯誤でしか育たない。

転ぶ前に親が座布団を敷き続けられた子は、いざ親の手の届かない戦場に放り出されたとき、自分で立ち上がる方法を知らない大人になってしまう。


​結果追跡型(目的のすり替え)

模試のたびに成績表を凝視し、偏差値や判定を厳しくチェックする。

親として現在地を知りたいのは当然だが、結果ばかりを追跡されると、子どもの目的は「自分の学力を伸ばすため」から「親に怒られないため(安心させるため)」へとすり替わる。

すると、わからない部分を隠し、目先の点数を繕うための浅い丸暗記に走るようになってしまう。

励まし型(根性論による思考停止)

成績が落ちて不安な我が子に、「あなたなら大丈夫」「頑張ればできる」とポジティブに励まし続ける。

一見正しいが、やり方が高校仕様に変わっていない子に必要なのは、アクセルを踏み込ませる根性論ではなく、一度立ち止まる「修正」である。

「頑張り方が間違っているのかもしれないから、一緒に作戦を練り直そう」という客観的な視点がないままの励ましは、時に子どもを孤独に追い詰める。

​2. 親の役割の再定義


​偏差値ではない。

高校のブランドでもない。

がむしゃらな努力の量でも、生まれつきの才能でもない。

そして、親が力ずくで引っ張ることでもない。

​大学受験を乗り越えるために本当に必要なのは、「失敗したときに、自分の力で何度でもOSを書き換え、自分を修正していける人間になること」ーーそれだけである。

​だとしたら、保護者の役割もまた、根本から再定義されなければならない。

親は、我が子の先頭に立って引っ張る「牽引者」になるべきではないのだ。

私たちが目指すべきは、子どもが安心して失敗し、安心して自分を書き換えられる環境を作る「伴走者」である。

​子どもを伸ばす親とは、勉強を教えられる親ではない。

正しい答えを先回りして与える親でもない。

我が子が壁にぶつかり、テストで手痛い点数を取ってきたときに、「何番だったの?」と結果を責める代わりに、「どうすれば次はうまくいくと思う?」と問い続けられる親である。

​3. 大学受験の果てに、本当に残るもの

しかし、なぜ私たちは、それが正しいと分かっていても先回りし、結果を追いかけ、情緒的に励ましてしまうのだろうか。

​子どもが苦しそうにしている。

成績が下がっている。

失敗している。

そんな我が子の姿を前にして、親が手を差し伸べたくなるのは、子どもを信じていないからではない。

むしろ逆だ。

あまりにも大切だからだ。

傷ついてほしくないからだ。

遠回りをしてほしくないからだ。

​しかし、大学受験という長い旅の中で、本当に子どもを成長させるのは成功ではない。

「失敗」である。

わからなかった経験。

間違えた経験。

順位が下がった経験。

思うようにいかなかった経験。

その苦い経験のすべてが、自分を修正する力の絶対的な材料になる。

​だからこそ、今、親に必要なのは、子どもを失敗させないことではない。

「失敗しても、この子は必ず自力で立ち上がれる」と信じることだ。

​子どもを信じて、待つ。

言葉にするのは簡単である。

​しかし実際には、それはどんな難問の答案より難しい。

模試の偏差値を上げることより難しい。

大学受験そのものよりも、遥かに難しい。

親である自分自身の不安と、これ以上ないほど向き合わされるからだ。

​それでも、大学受験が終わったあとに我が子の人生に本当に残るものは、1枚の合格通知ではない。

ましてや、1枚の成績表に書かれた偏差値でもない。

​我が子の心の中に、「転んでも、自分で立ち上がって、また歩き出せる力」が残ったかどうかである。

​大学受験とは、子どもが大人へと成長するための試験であると同時に、親が我が子を「信じて待つ覚擁」を学ぶための試験でもあるのだと、私は切に思っている。

​4. 本シリーズの終わりに:一本の線が繋ぐもの

本シリーズの前では「どの学校に行くか(環境論)」を考えた。

本シリーズでは「高校でどう伸びるか(大学受験論)」を考えた。

​しかし、その答えは意外なほど単純だった。

子どもを伸ばすのは、学校の名前ではない。

子どもを伸ばすのは、才能でもない。

子どもを伸ばすのは、自分を修正し続ける力である。

​そして親の役割とは、その力が育つ環境を、自らの不安に打ち克って信じ、守ることなのだ。

​では、この「自分を修正する力」の種は、いったいいつ作られるのだろうか。

高校生になってからなのだろうか。

中学生になってからなのだろうか。

​実は、その土台は、もっとずっと前から始まっている。

次回からは、「小学生時代の思い込み」をテーマに、自走できる子どもの原点がどこにあるのか、その核心へ向かって時計の針を戻してみたい。

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