【熊本からの大学受験】小学生時代の思い込み編①【いろはにほへと:第14回】

​〜「できない自分」との初対面〜

​「小学生のうちは、とにかく楽しく勉強してくれればそれでいいと思うんです」

​保護者面談の席で、私はこの言葉を本当に何百回と聞いてきた。

そのたびに、私は少しだけ考え込んでしまう。

​もちろん、その願い自体は1ミリも間違っていない。

子どもには勉強を嫌いになってほしくない。

机に向かう時間を苦痛だと思ってほしくない。

親として、これほど自然で、温かい愛情に満ちた願いはないだろう。

​実際、小学生のうちに「知るって面白い」という原体験を得ることは、一生の財産になる。

だから私は、「楽しく勉強すること」を否定したいわけでは決してない。

​ただ一つだけ、現場で長年、多くの子どもたちと向き合い続け、その「その後」までを見届けてきた者として、どうしてもお伝えしなければならない事実がある。

​それは、

「楽しく勉強できる子」が伸び続けるのではない。

「できないことと機嫌よく向き合える子」ほど、学年が上がるにつれて伸び続ける。

という現実だ。

​■ 「できない自分」との初対面

​小学生の頃、カラーテストでは常に100点。

塾のテストでも上位。

先生からも、親からも「すごいね」と褒めちぎられる。

本人も当然のように「自分は勉強が得意なんだ」と思っている。

​ところが、そんな子が中学生や高校生になり、あるいは本格的な難問にぶつかった瞬間、今まで順調に回っていたはずの歯車が、ガチリと音を立てて止まってしまうことがある。

​分からない。解けない。順位が下がる。

すると、あれほど勉強が好きだった子が、まるで取り憑かれたように机に向かわなくなり、勉強を避け始めるのだ。

​親御さんは困惑する。

「あんなに楽しそうに勉強していたのに、急に嫌いになってしまった」と。

​だが、それは違う。その子は、勉強が嫌いになったのではない。

人生で初めて、「できない自分」に出会ってしまったのだ。

​そして不幸なことに、これまでの人生で「できない自分とどう付き合うか」という練習を、一度もしてこなかったのである。

​私たちが無意識に口にする「勉強が楽しい」には、実は2つの種類がある。

​1つは、「最初からできることをやって、100点を取って褒められる楽しさ」だ。

しかしこれは、平坦な道を歩いているようなものである。

平坦な道をどれだけ歩いても、自分の本当の脚力は見えてこない。

そこにあるのは、成長ではなく「現状維持の心地よさ」に過ぎない。

​もう1つは、「分からなくてウンウン唸り、悔しくて消しゴムを握りしめた末に、視界が開ける楽しさ」である。

「あ、そうか!そういうことか!」

その瞬間に訪れる喜びは、100点を取ったときの喜びとは本質的に異なる。

なぜならそれは、「できなかった自分が、できる自分へと脱皮した」という、自己変革の実感を伴うものだからだ。

​本当に学力が伸び続ける子が知っているのは、間違いなく、この後者の楽しさである。

​■ 間違いは「宝の地図」

​ステージが上がるにつれて、問題の難度は跳ね上がり、誰もが必ず「できないこと」の壁にぶち当たる。

この世に、一度も挫折せずにトップへ登り詰められる人間など存在しない。

​勝負を分けるのは、頭の良さではない。

「できないこと(×)」に出会ったとき、どれだけ機嫌よく、それと付き合えるか。

ただ、それだけだ。

​最後まで伸び続ける子は、自分の答案に「×」を見つけたとき、絶対に落ち込まない。

むしろ、ちょっと目を輝かせてこう言うのだ。

「あ、ここが弱かったのか。じゃあ、ここを直せばいいんだね」

​彼らは「×」を、自分の存在価値の否定だとは受け取らない。

前シリーズで提示した【修正のOS】が当たり前のように駆動しているからだ。

彼らにとって「×」とは、自分を傷つける刃ではなく、「次に自分が強くなる場所を教えてくれる宝の地図」なのである。

​修正できる子は、間違いを恐れない。

間違いを恐れない子は、新しい挑戦を恐れない。

だから、どこまでも伸びていく。

​■ 親が今日から家庭でできること

​では、まだ「平坦な道の楽しさ」の中にいる小学生に対して、親は今日から何ができるのだろうか。

​それは、驚くほど些細な、しかし決定的な「言葉のアップデート」だ。

​テストで100点を取ってきたときに「すごいね!」と喜ぶのは構わない。

だが、そこで終わらせてはいけない。

本当に親がエネルギーを注ぐべきなのは、我が子が「間違えた問題」を持ち帰ってきた、その瞬間である。

​「お、面白いところ間違えたね!ここを直したら、さらに強くなっちゃうじゃん」

「どうやったら解けるようになるか、一緒に作戦を立てようか」

​そんな風に、親の側が「×」を歓迎し、面白がってみせるのだ。

​子どもに手渡したいのは、「間違えてもいいよ」という単なる慰めではない。

もっと深いところにある、

「たとえ何点だろうが、間違えようが、あなたの価値は1ミリも揺らがない」

という無条件の安心感である。

​その安心感がある子は、できない問題から逃げなくなる。

そして逃げなくなった瞬間から、人は本当に成長し始める。

​■ 小学生時代に、本当に育てたいもの

​小学生のうちに親が子どもに渡すべきものは、高度な計算力でも、膨大な漢字の知識でもない。

​本当に育てたいのは、

「できない自分と出会っても、自分の価値まで疑わない力」

である。

​人は、自分の価値を信じられているときだけ、自分の欠点を直視できる。

自分の欠点を直視できる人だけが、自分を修正できる。

そして、自分を修正できる人だけが、長い人生を歩いていく。

​小学生時代とは、学力を作る時期ではない。

その後の人生で何度も訪れる「できない自分」と出会う日のために、心の土台を作る時期なのである。

​しかし現実には、多くの家庭で、この土台が知らないうちに削られていく。

それも、子どもを愛しているからこそ起きる形で。

​次回、

【小学生時代の思い込み編②】〜勉強ができる子より、失敗できる子〜

を考えてみたい。

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