【熊本からの大学受験】中学生時代の思い込み編①〜比べた瞬間に見えなくなるもの〜【いろはにほへと:第19回】

​〜比べた瞬間に見えなくなるもの〜

​中学校の廊下、三者面談を待つ静けさの中で、手渡された一枚の「熊本県共通テスト」の結果表。

自分の志望校判定を見るよりも先に、無意識のうちに隣の席のアイツの点数を気にしている中学生。

​あるいは、わが子の成績表を前にしながら、

「第二高校なら届くけれど、済々黌は厳しいかもしれない」

「あそこのお家のお子さんは熊高(くまたか)を狙うらしい」と、

地元の進学校の序列を頭の中で並べ替え、言葉にならない焦燥感に胸を締め付けられている親。

​熊本という土地で子育てをしていれば、誰もが一度はこの息苦しさに直面したことがあるはずだ。

​人口規模が大きすぎず小さすぎないこの街では、高校の進学ヒエラルキーが驚くほど明確に、そして残酷なほど均質に共有されている。

熊高、済々黌、第二、第一。あるいは熊本北、玉名、宇土……。

中学に入った瞬間、子どもたちは勉強そのものの楽しさではなく、「自分はどこの高校へ行く人間なのか」という、他者との果てしない比較の世界へと投げ込まれることになる。

​「比較なんて、しなければいい」

そんな正論は、この現実の前では何の役にも立たない。

なぜなら、受験という制度そのものが比較であり、私たちは比較しなければこの現実を生き抜くことができないからだ。

​それどころか、私たちはどこかで、この「比較」という沼の甘い味を知っている。

​■ 比較が持つ、強烈な中毒性

​なぜ、私たちはこれほどまでに他人に勝ちたいのだろうか。

なぜ、私たちはこれほどまでに他者と自分を比べてしまうのだろうか。

​理由はシンプルだ。比較には、脳を痺れさせるような強烈な「魅力」があるからだ。

​クラスで一番の点数を取った日。

模試の判定が「A」に跳ね上がった日。

他者より上の順位に自分の名前を見つけたとき、私たちは自分がまるで特別な存在になったような全能感を覚える。

家に帰る足取りは軽くなり、周囲からの「すごいね」という視線が、自分の乾いた心を一瞬で満たしてくれる。

​他人に勝つことは、手っ取り早く自分を強者にしてくれるガソリンなのだ。

​しかし、その甘い蜜を舐めた瞬間から、私たちは同時に、底なしの恐怖を飼い慣らすことになる。

他者より上になることで手に入れた喜びは、他者より下になった瞬間に、そのまま「存在の否定」へと反転するからだ。

​順位が下がった日。

志望校の判定が落ちた日。

私たちは、物理的には何も失っていないはずだ。

知識が減ったわけでも、人間の価値が目減りしたわけでもない。

それなのに、まるで自分の存在すべてが劣っているかのような、冷たい敗北感に打ちのめされる。

​苦しいのは、他人に「負けること」そのものではない。

比較の結果と、自分の「自己価値」が、完全に結びついてしまっていることなのだ。

​■ 本当に欲しかったものは

​前シリーズで、私たちは「頭がいい子」「優しい子」という役割の檻について考えた。

「〜な自分でなければ、愛されない」という思い込みだ。

​中学生になり、世界が一気に広がったとき、その檻はさらに強固な姿となって牙をむく。

今度は、「勝っている自分でなければ、価値がない」という、比較のOSが起動を始めるのだ。

​勉強は本来、昨日の自分が知らなかった世界を知るための、極めて個人的で、贅沢な「自分自身の物語」だったはずだ。

しかし、そこに他人の物差しが滑り込んできた瞬間、勉強は自分の価値を守るための「終わりのない防衛戦」へと変貌する。

​他人の走るスピードばかりを気にしながら走るフルマラソンが、苦しくないはずがない。

​私たちは、本当にあの四高の制服が、あの合格通知の紙切れが欲しかったのだろうか。

それとも、その「勝利」という条件を手に入れることでしか、自分を認めることができなかったのだろうか。

​私たちはなぜ、そこまでして他人に勝ちたいのだろう。

本当に欲しかったのは、ただの順位なのだろうか。それとも、その先にある何かだったのだろうか。

​次回、

【中学生時代の思い込み編②】〜偏差値という幻影〜

において、熊本の教育現場が抱える、さらに深い歪みの正体に迫りたい。

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