〜努力は才能ではなく技術である〜
4月、新学期。あるいは、新しいタームが始まる塾生の部屋。
机の上には、まだ折り目のついていない新しい参考書と、真っ白なノートが並んでいる。
子どもたちの胸は「今度こそやってやる」という純粋なやる気に満ちている。
その夜、子どもは宣言通り、3時間机に向かって猛烈にペンを動かす。
翌日も2時間。その次の日も、眠い目をこすりながら必死に頑張る。
1週間後――。
部屋を覗くと、机の上は綺麗に片付けられ、あの参考書は閉じられたままになっている。
子どもはベッドに寝転び、スマホで動画を見ている。
この光景を見て、多くの親は落胆し、こう口にしてしまう。
「やっぱりあの子は長続きしない」
「口だけで、本気で熊高に行きたいなんて思っていないんだ」
そして子ども自身もまた、「自分はなんて意志が弱い人間なんだ」と、激しい自己嫌悪に陥っていく。
だが、17年間現場で子どもたちを見続けてきた私は、ここで明確に否定したい。
彼らは、怠惰だからやめたのではない。
本気ではないからスマホを見ているのでもない。
最初から100メートル走のスピードで、42キロのマラソンを全力疾走しようとしていたから、途中で息が切れて倒れただけなのだ。
もちろん、子どもの勉強を取り巻く環境には、睡眠や体調、メンタル、あるいは発達の特性など、気合いや仕組みだけでは割り切れない複雑な背景がいくつもある。
努力は、才能や根性「だけ」で決まるわけでは決してない。
しかし、多くの場合において、努力という行為は「技術」によって大きく改善することができる。
いい加減、私たちは「努力は気合いと根性だけで続けるものだ」という、呪いのような精神論の幻想から目を覚まさなければならない。
■ 伸びる子が持っている「設計図」
私の教室で、驚くほど淡々と勉強を続け、偏差値を伸ばしていく子が持っているのは、決して鋼の意志ではない。
彼らはただ、努力を継続するための「技術」を、知ってか知らずか使いこなしているだけだ。
その技術の正体は、拍子抜けするほどシンプルだ。
- 毎日、やる気に関係なく「同じ時間」に椅子に座る(ルーティン化)
- 「ノートを開くだけ」「単語を1個見るだけ」まで、始めるハードルを極限まで下げる
- 「完璧な計画」を目指さず、5割できれば合格とする
- どうしても続かなかった日があっても、自分を責めずに翌日シレッと戻る
彼らは「やる気」という、天候のように移り変わりやすい不安定な感情を1ミリも信用していない。
感情に頼るのではなく、「気がついたらペンを握っていた」という行動の設計(システム)を作っているのだ。
努力ができないのではない。努力のやり方(設計)を知らないだけ。
だとすれば、やるべきことは精神論で発破をかけることではない。
その設計図を、親子で一つずつ、無理のない範囲で組み立てていくことだ。
■ 親という「環境」
努力を支える技術が「設計」であるならば、親の役割もまた、劇的に変わることになる。
前々シリーズまでの親は、子どもの進路をコントロールしようとする「管理者」だった。
では、ハンドルを手放した前シリーズの親は、何になればいいのか。
監督か、コーチか。
いや、親が子どもに与えられる最大の支援とは、「勉強しなさい」という言葉のナイフではなく、「子どもが、その努力の技術を最も発揮しやすい環境」をただ整えてあげること以外にない。
そして、家庭における最大の「環境」とは、部屋の片付けでも、最新の参考書でもない。
一日の中で何十回と交わされる、「親の言葉」そのものなのだ。
努力の技術を学んだところで、私たちは毎晩、現実のリビングで激しい葛藤に直面することになる。
夜9時。リビングのソファでスマホをいじり、一向に動こうとしない我が子の後ろ姿。
喉元まで、あの言葉がせり上がってくる。
「声をかけるべきか、それとも放っておくべきか」
次回、
【それでも受験は続いていく④】〜その一言は、本当に必要か〜
親という「管理者」を卒業した私たちが、今夜9時のリビングで、我が子に投げかける「最初の言葉」。
家庭の空気を一瞬で変える、親の言葉の技術について。

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