世の教育書や子育て論を開けば、必ずと言っていいほど「家庭の空気を良くしよう」と書かれている。
怒らないこと、お互いに仲良くすること、ポジティブな声をかけ合うこと――。
しかし、受験期を迎えた家庭のリビングは、そんなに綺麗な場所ではない。
親も不安で、子どもも不安だ。
ピリピリとした緊張感が漂うのは、むしろ当たり前の景色である。
ここで私たちは、一つの真実に気づかなければならない。
子どもたちは、親の「言葉」を聞いているのではない。
親の胸の奥にある「感情の気圧」を、驚くほどの敏感さで肌で読んでいるのだということに。
例えば、親が何も言わない。怒りもしない。無理に笑顔を作っている。
けれど心の中では、「本当にこのままで受かるの?」「どうしてもっとやらないの?」と、言葉にできない不安でパンパンに膨れ上がっているとする。
そのとき、リビングの気圧は一気に下がる。
子どもは、親のその張り詰めた気配を察知し、「何も言われていないのに、息が苦しい」という状態に陥ってしまうのだ。
家庭の空気とは、親が発した言葉で作られるのではない。
親が言葉の裏に隠し、飲み込めなかった「生の感情」によって作られる。
■ 点数が悪かった日に、帰りたい場所か
だからこそ、私はここで「理想の家庭の演じ方」を語るつもりはない。
受験期の家庭は苦しい。それでいい。
ただ、親であるあなたに、最後に残された、たった一つの最も重要な仕事についてだけ話をさせてほしい。
コーチでも、伴走者でも、環境整備係でもない。
すべての肩書を外したとき、最後に残る役割。
それは、我が子にとっての「帰ってこられる場所」であり続けることだ。
ここに、一枚の模試の帳票がある。
結果は惨たんたるものだった。
志望校判定は「E」。
届くと思っていた基準点には遠く及ばず、仲の良い友人はみな、遥か上の順位にいる。
子どもは、塾からの帰り道、自転車を漕ぎながら、あるいは電車の窓の外を見つめながら、絶望に身を焦がしている。
自分の無力さに傷つき、プライドを打ち砕かれ、ボロボロになって我が家の玄関のドアを開ける。
そのとき、その子が帰ってきた家は、どんな場所であるべきか。
受験生にとって本当に必要なのは、100点を取った日に褒めちぎられることではない。
50点だった日。E判定だった日。志望校が遠のいたと感じた日。
そんな「うまくいかなかった日」に、怯えることなくドアを開けられる場所があるかどうか。
それだけなのだ。
■ いつも通りの「おかえり」
模試の夜、子どもが無言で帰宅する。
その暗い表情を見ただけで、親であるあなたには全てが分かる。
結果が悪かったのだと。
喉元まで、「どうだった?」という言葉が出そうになる。
けれど、その言葉をそっと飲み込む。
代わりに、いつも通りにあたたかい夕飯をテーブルに出す。
いつも通りに、静かな声で「おかえり」と言う。
それ以上は、何も聞かない。
子どもを大きく伸ばした家庭に、何か特別な魔法があったわけではない。
彼らの親がしたことは、たった一つ。
うまくいった日も、うまくいかなかった日も、ただ「帰ってこられる場所」であり続けた。
それだけだったのだ。
他人のスコアボードを下ろし、ハンドルを手放したあなたの背中には、もう他人の目は映っていない。
どれだけ模試の数字に傷ついても、このドアの向こうには、自分の価値を1ミリも疑わずに迎えてくれるスープの湯気と、変わらない「おかえり」の声がある。
その絶大なる「安心の地面」を手に入れた子どもは、翌朝、再び自分の意志で、あの冷酷な順位の世界へと、力強く歩き出していく。

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