【熊本からの大学受験】受験とは何か②​〜合格は成功ではない〜【いろはにほへと:第35回】

​合格発表の日。校舎の前に張り出された掲示板の前で、地鳴りのような歓声が上がる。

​自分の受験番号を見つけ、抱き合って涙を流す親子。

スマートフォンのカメラで合格通知を何度も写す家族。

LINEの画面には、友人や親戚からの「おめでとう」という通知が鳴り止まない。

​その瞬間だけを切り取れば、まるでそこで「人生の勝者」と「敗者」が完全に決まったかのように見える。

​だが、私は17年間、その風景の「続き」を見続けてきた。

​最初に明確にしておきたい。

第一志望に合格すること、熊高や済々黌の門をくぐることの価値は、圧倒的だ。

そこで得られるハイレベルな環境、切磋琢磨できる友人、そして「やり切った」という確固たる自信は、間違いなく君の人生の選択肢を大きく広げてくれる。

その価値を、私は1ミリも否定しないし、どこまでも堂々と目指すべきだ。

​しかし、同時に知っておいてほしい、もう一つの冷徹な真実がある。

合格は、重要だ。しかし、万能ではない。

​■ 掲示板の「3年後」に起きること

​私の教室からは、毎年高校へ進学していく。

しかし、合格の鐘が鳴り響いたその瞬間に、もう一つの「現実」が静かに幕を開けるのだ。

​ある生徒は、猛勉強の末に念願の熊高にトップクラスの成績で合格して、ワカスクに入塾。

しかし、合格した瞬間にすべての糸が切れ、高校入学後は全く机に向かわなくなってしまった。

周囲の秀才たちに圧倒され、自信を失い、いわゆる「燃え尽き症候群」のまま3年間を過ごすことになった。

​一方で、第一志望の伝統校を僅差で逃し、私立高校へ進学した生徒がいた。

不合格の日は親子で大号泣した。

しかし、彼はその悔しさを静かにエネルギーに変え、進学先の高校で「自分の居場所」と「新たな目標」を見つけた。

生き生きと自分のペースで学び直した彼は、3年後、大学受験で大逆転を果たし、かつて熊高に進学したどの同級生よりも、自分が本当に生きたかった道を歩んでいる。

​こうした風景は、塾の現場では決して珍しい話ではない。

むしろ、毎年当たり前のように繰り返される日常だ。

​ここで、私たちはハッと気づかされる。

合格は「結果」であって、人生の「成功」ではないのだ、と。

■ 受験神話を、終わらせる

​はっきりと一言で言おう。

合格は、能力の証明ではない。その日の勝敗の結果にすぎない。

​この言葉は、合格した人間を貶めるためのものではない。

同時に、不合格だった人間を慰めるためのものでもない。ただの「事実」だ。

​熊高は素晴らしい。また、どの高校も素晴らしい。

けれど、そこに君の人生のすべてを保証してくれるような「魔法のチケット」など、1枚も存在しないのだ。

​私たちが本当に終わらせなければならないのは、特定の高校の名前に平伏し、そこに入りさえすれば一生安心だと思い込む、盲目的な「受験神話」そのものである。

​人生は、合格発表の日の先の方が、はるかに、圧倒的に長い。

主役は高校の名前ではない。

その制服を着て、あるいは別の制服を着て、そこから「どう生きるか」を決める君自身なのだ。

​もしも、合格が成功ではないのなら。

もしも、不合格が失敗ではないのなら。

私たちは一体、何を基準に、この受験という旅を、そしてこれからの人生を評価すればいいのだろう。

​次回、

【受験とは何か③】〜不合格は失敗ではない〜

​不合格の通知を受け取った日、世界が終わったように絶望する親子へ。

あの日の涙の裏側に隠されていた、数年後にしか分からない「もう一つのギフト」について。

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