〜自分の物語を取り戻す〜
ここまで、私たちは「比較」という底なしの沼について、そして熊本の高校受験を舞台にした「安心の借り物競争」の苦しさについて考えてきた。
しかし、誤解しないでほしい。
私はここで、「他者と比べるのをやめよう」とか「偏差値なんて気にせず自分らしく生きよう」といった、現実から浮いた綺麗事を言うつもりは全くない。
私たちは、比較を消し去ることなどできない。
熊本の親子にとって、高校受験はこれからも生活の真ん中にあり続けるし、模試を受ければ順位は出る。
熊高、済々黌、第二、第一……伝統校が持つ現実に即した価値や進学実績も、消えてなくなるわけではない。
大切なのは、比較を人生から消し去ることではないのだ。
比較を、人生の「主人公」の座から引きずり下ろし、ただの「脇役」に降格させること。
それだけだ。
■ 順番をひっくり返す
多くの人は、こう信じている。
「努力して、結果を出して、他人に勝てたら、ようやく安心できる」
だが、私たちは前回で、その順番の絶望を知った。
外側のラベルから借りてきた安心は条件付きだからこそ、どれだけ高い山に登っても、次の数字に怯え続けることになる。
だから、順番をひっくり返すのだ。
「結果を出したら安心できる」のではなく、「安心しているから、挑戦できる」のだ。
前シリーズで私たちが考えた、何があっても揺らがない「ここにいていい」という地面。
その無条件の安心が心の奥底に敷かれているからこそ、子どもたちは初めて、比較という数字の飛び交う現実の世界へ、安心して飛び込んでいくことができる。
安心しているから、模試でC判定を取っても、自分の価値を疑わずに「次はどこを修正しようか」と冷静にデータとして扱える。
安心しているから、不確実な未来への恐怖にすくむことなく、自分の足で一歩を踏み出せる。
安心しているから、失敗を恐れずに、泥臭く勉強に没頭できる。
受験という現実のゲームを戦うためにこそ、他人の物差しに依存しない「絶対的な安心の地面」が必要なのだ。
■ 17年、現場で見つめ続けてきたこと
受験を人生の主人公の座から降ろしたとき、目の前の景色は静かに変わり始める。
例えば、熊高を目指して猛勉強している中学3年生の子がいる。
人生の主人公が「熊高合格」になっているときは、模試の点数一つで自分の存在価値がグラグラと揺れ、受験はただの苦しい防衛戦になる。
しかし、もしその子の人生の主人公が「数学の証明を解くのが面白い」だったり、「将来は医師になって人を救いたい」「海洋生物の研究がしたい」という、自分自身の物語だったらどうだろうか。
熊高という学校は、その大好きな物語をさらに前へ進めるための、数ある「手段」のうちの一つに変わる。
落ちたら人生終わりなのではない。
自分の物語を進めるためのルートが、少し変わるだけだ。
そこにはもう、自分をすり減らすような悲壮感はない。
私はこの熊本の地で17年間、何百人もの子どもたちの受験と、その後の人生を見つめ続けてきた。
熊高に落ちて涙を流した子も、熊高に受かって燃え尽きてしまった子も見た。
済々黌で激しい挫折を味わった子も、第二や第一から劇的に可能性を広げた子も、すべてこの目で見てきた。
その17年を経て、今、確信を持って言えることがある。
人生を変えたのは、けっして「どこの高校に受かったか」ではなかった。
その高校という場所で、他人の目を離れ、「自分の物語」を生き始めたかどうかだった。
高校名も、偏差値も、他人のスコアボードも、あなたの物語を彩るための、ただの背景に過ぎない。
リビングの机の上には、あいかわらず県模試の判定表が置かれている。
そこにある数字は、さっきまでと何一つ変わっていない。
けれど、それを見つめる親の、そして子どもの肩からは、ほんの少しだけ力が抜けている。
他人の物差しを、そっと机の上に置く。
張り詰めた沈黙を破るように、ノートを開く小さな音が響いた。
「さて、続きをやろうか。」

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