大人の社会を見渡してみると、ある共通の生きづらさを抱えた人たちに出会う。
失敗することが極端に怖くて、新しいプロジェクトに手を挙げられない人。
周囲に弱みを見せることができず、すべてを一人で抱え込んで潰れてしまうリーダー。
いつも「しっかり者」「優しい人」であることを求められ、自分の本音を言えないまま疲弊している人。
彼らは決して、能力が低いわけではない。
むしろ、社会的には十分に優秀で、責任感の強い人たちばかりだ。
では、なぜそれほどまでに自分を縛り付けてしまうのだろうか。
その理由を紐解いていくと、私たちはある共通の原風景に行き着くことになる。
それは、中高生の反抗期でも、社会人の挫折でもない。
もっとずっと手前、あの懐かしい「小学生時代」の記憶だ。
彼らは、大人になってから変わってしまったのではない。
小学生の頃に、ある「役割」を完璧に演じるための仮面を被り、それを今も外せないまま生きているのである。
その仮面を作ったきっかけは、皮肉なことに、親や周囲の大人たちが注いでくれた、無数の「優しい褒め言葉」だった。
■ 役割に貼り付く言葉
「褒めること」自体が悪いわけでは決してない。
我が子の成長を喜び、言葉にして伝えることは、親としての至極当然で尊い愛情表現だ。
問題は、褒めることそのものではなく、その褒め言葉が子どもの「人格」ではなく、特定の「役割」に貼り付いてしまうことにある。
「〇〇ちゃんは、本当に頭がいいね」
「いつも優しくて、手がかからない良い子だね」
「お兄ちゃんだから、やっぱりしっかりしているね」
これらの言葉を受け取ったとき、子どもたちの心の中では、ある静かな決意が生まれる。
子どもにとって苦しいのは、「頭がいい」と言われることではない。
「頭がいい自分でいなければならない」と思い始めることだ。
「優しい」と言われることではない。
「優しい自分しか愛されない」と思い始めることだ。
第2回で語った「仮面」は、親が無理やり押し付けたものではない。
大人からの愛情を失いたくない、認められ続けたいと願う子ども自身が、自ら内側から鍵をかけて被ったものなのだ。
「頭がいい」という役割を背負った子は、その役割を守るために、分からない問題を質問できなくなる。
「優しい」という役割を背負った子は、誰かを傷つけることを恐れて、自分の怒りやわがままを封じ込める。
「しっかり者」という役割を背負った子は、甘え方を忘れ、弱音を吐けない子どもになっていく。
役割と自己価値が結びついてしまった瞬間、勉強は新しい世界を知る冒険ではなく、その役割からはみ出さないための防衛戦になる。
そして子どもから、挑戦し、失敗する勇気が静かに奪われていく。
■ 「条件付きの自分」からの解放
かつて子どもだった私たちが、そして今を生きる目の前の子どもたちが求めているのは、「何かができるから素晴らしい」という条件付きの称賛ではない。
「100点を取ったあなた」も「頭のいいあなた」も、それはあなたの素晴らしい一部ではある。
しかし、その役割を演じていないときのあなたにも、全く同じ価値がある。
その事実を、家庭という場所でどれだけ実感できるか。
もし、子どもが役割からはみ出そうとしたとき。
いつも優しい子が激しい感情を爆発させたとき、いつも優秀な子が信じられないような低い点数を取ってきたとき。
それは、仮面が苦しくて悲鳴を上げている合図かもしれない。
大人の仕事は、「いつも通り優秀で優しい子」に戻すことではない。
「そっか、悔しかったね」
「できない日があっても、お母さんはあなたのことが大好きだよ」
その役割を演じていない無防備な姿のまま、ただそこにいることを許される経験。
それこそが、子ども自身が自ら進んで仮面を外し、自分の足で立ち上がるための本当のエネルギーになる。
■ 10年後、20年後のために
小学生時代とは、ただ従順に知識を蓄え、要領よく100点を取る技術を身につける期間ではない。
その後の長い人生で、何度も訪れるであろう「できない自分」や「完璧ではない自分」に出会ったとき、自分を見失わずに生きていくための心の土台を作る時期なのだ。
人は、何かができるから自分を信じられるのではない。
できない日があっても、できない自分のまま居場所があると知っているから、もう一度立ち上がれるのである。
しかし私たちは、その感覚を混同しやすい。
自信と自己肯定感は、似ているようで全く違う。
次回、
【小学生時代の思い込み編④】〜自信と自己肯定感は違う〜
を考えてみたい。

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