【熊本からの大学受験】親はなぜ焦るのか②〜なぜ責任を背負いすぎるのか〜【いろはにほへと:第25回】

​〜なぜ責任を背負いすぎるのか〜

​「私がなんとかしなければ、この子の人生が終わってしまう」

​模試の判定表を前にして、あるいは部屋で一向に机に向かおうとしない我が子の後ろ姿を見て、そんな言いようのない義務感に駆られたことはないだろうか。

​前回、私たちは親を突き動かす焦りの正体が、見栄ではなく「この子の人生を守れなかったらどうしよう」という深い罪悪感と責任感であることを見つめた。

読者の中には、「確かに不安だ。でも、親が子どもの未来に責任を感じるのは当然ではないか。放っておけと言うのか」と感じた方もいるかもしれない。

​その通りだと思う。

親が我が子の行く末を案じ、進路に伴走するのは当然の責任だ。

​だからこそ、ここで時計の針を少し巻き戻して、もう一歩手前の問いを置いてみたい。

なぜ私たちは、我が子の未来に対して、これほどまでに「過剰なまでの責任」を背負い込んでしまうのだろうか。

​■ 「親次第」という優しい呪い

​振り返ってみれば、子どもが生まれたその日から、私たちはあらゆるメディアや専門家、あるいは周囲の視線から、ある一つのメッセージを浴びせられ続けてきた。

​「3歳までの絵本の読み聞かせが脳を育てる」

「小学校低学年の家庭環境がすべてを決める」

「親の声掛けひとつで、子どものやる気は変わる」

​どれも、間違いではない。

子どもの成長において、親の存在や家庭環境が極めて大きな影響を与えるのは紛れもない事実だ。

​しかし、小学校、中学校、へと進む10年、15年の月日の中で、この「親の関わり方次第」という言葉を内面化していくうちに、真面目で愛情深い親の頭の中では、いつの間にか恐ろしい変換が行われてしまう。

​「子どもの人生の結果は、すべて私の責任だ」と。

​ただ、誤解しないでほしい。

私はここで、世の教育論が悪いと言いたいわけではない。

むしろ私たちは、その言葉を信じたかったのだ。

​「親の関わりで子どもは変わる」

その言葉は重荷でもあったが、同時に大きな希望でもあった。

なぜなら、我が子の未来に何かしてあげたい、少しでも力になりたい、守れるものなら守ってやりたい。

そう願う親の切実な愛情に、その言葉はあまりにも自然に、優しく響いてしまうからだ。

​誰のせいでもない。

あなたが我が子を深く愛しているからこそ、その愛情の強さゆえに、いつの間にか背負わなくてもいいはずの重い鎖まで、自分から両肩に巻き付けてしまったのだ。

​そして、あの終わりのない泥沼のループが始まる。

​子どもが勉強しない。

不安になる。

焦って「勉強しなさい」と声を掛ける。

子どもは反発し、何も変わらない。

もっと強く、感情的に言う。

親子の関係が悪化する。

夜、激しい自己嫌悪に陥る。

さらに不安が募り、もっと口を出してしまう。

​このループの中で、親は子どもを支配したいわけでも、信じていないわけでもない。

ただ、「全部自分が背負わなければ、この子は脱落してしまう」という、愛から始まったはずの責任感に押しつぶされそうになっているだけなのだ。

​■ それでも、なぜ手放せないのか

​私たちは、子どもの人生を後ろから支える「応援席」にいたはずだった。

しかし、背負い込んだ責任の重さに耐えかねて、いつの間にか子どもの人生のハンドルを奪い取り、運転席でパニックを起こしている。

​もし、「子どもの人生を支えること」と、「子どもの人生を管理すること」が、まったく別のことだったとしたら、私たちのこの不安は、少しだけ軽くなるのだろうか。

​私たちは、本当に子どもを信じていないのだろうか。

​私には、そうは思えない。

むしろ多くの親は、誰よりも我が子の可能性を、その力を、信じたいと心から願っているはずだ。

​それなのに、なぜ手放せないのだろう。

なぜ、つい口を出してしまうのだろう。

なぜ、不機嫌になりながら、未来を先回りして守ろうとしてしまうのだろう。

​もしかすると私たちは、子どもを信じられないのではない。

​もっと別のものを、信じられなくなっているのかもしれない。

​次回、

【親はなぜ焦るのか③】〜なぜ未来を信じられないのか〜

​私たちが本当に信じられなくなっているものの正体。

その、現代の私たちが直面している本当の暗闇へと、さらに一歩深く潜りたい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました