勝ちたい気持ちは否定しなくていい
模試の結果が返却される。
恐る恐る帳票を開くと、前回よりも偏差値が「3」上がっていた。
「やった!」
胸の奥から湧き上がる純粋な喜び。
自分の努力が実を結んだ瞬間だ。
しかしその直後、ふと隣の席の友人の帳票が目に入る。
自分よりも、遥かに上の点数を取っていた。
その瞬間、さっきまであんなに満たされていたはずの喜びは、霧のように一瞬で消え去り、代わりにどす黒い焦りと嫉妬が胸を支配する――。
学校や塾の教室で、毎年のように繰り返される光景だ。
このとき、子どもたちの心(そしてそれを見る親たちの心)で何が起きているのだろうか。
私たちは気がつかなければならない。
自分が欲しかったのは「自分の成長」ではなく、いつの間にか「他人より上であるという証明」になっていたのだということに。
ここで、私はあなたに、とても残酷で、けれど最も大切な問いを投げたい。
君は本当に、その場所へ勝ち進みたいのか。
それともただ、「負けた」と思いたくないだけなのか。
■ 目的地のない競争という砂漠
「勝ちたい」と思うことは、決して悪ではない。
世間の教育論ではよく「人と比べるのをやめよう」と美しく語られるが、本気で上を目指している人間が、勝負の場で「勝ちたい」と願うのは極めて自然な本能だ。
問題は、そのエネルギーの「向き」なのだ。
もしも君の走る理由が「負けたと思いたくないから(他人のスコアボード)」であるならば、その受験はどこまで行っても地獄のままだ。
なぜなら、学年で1位になろうが、県内でトップを取ろうが、上には必ず誰かがいる。
他人に勝つことそのものが目的になった瞬間、勝っても勝っても「次は抜かれるかもしれない」という恐怖から解放されることはない。
それは、終わりのない砂漠を走るようなものだ。
では、他人のスコアボードを下ろした人間の「本当の向上心」とは何だろうか。
それは、昨日より何点上がったかでも、誰に勝ったかでもない。
「私には、行きたい場所がある。だから走る」
ただ、それだけだ。
熊高に行きたい。
将来、医師になりたい、教師になりたい、ゲームを作りたい、まだ見ぬ宇宙を研究したい。
理由は何でもいい。
自分の中に「目的地」があるから、その距離を埋めるために努力する。
そうなったとき、初めて「競争」は主役の座を奪われ、単なる「副産物」へと降格するのだ。
■ 1位を目指していい
だからこそ、私はもう一度言いたい。
1位を目指していい。
熊高を目指していい。
済々黌を目指していい。
第二も、第一も、学年トップだって堂々と目指していい。
ただ、一つだけ忘れないでほしい。
それらは君の人生のゴールではない。
君が、君の行きたい場所へ行くための、ただの「通過点」にすぎないということを。
主役は順位ではない。君自身だ。
他人に勝つためではなく、自分の目的地へたどり着くために、もう一度その物差しを握り直そう。
他人への執着を手放した君の胸には、もう、すぐに燃え尽きるような偽物のガソリンは入っていない。
「私は、あそこへ行きたい」
という、静かで、誰にも消せない本物の炎が灯っているはずだ。
次回、
【それでも受験は続いていく③】〜努力は才能ではなく技術である〜
順位から逃げず、目的地も決まった。
だが、受験で最も難しいのは、才能の有無でも根性の強さでもない。
「毎日、机に向かい続けること」そのものだ。
私たちは、努力という行為の正体を、誤解しすぎていたのかもしれない。

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