〜偏差値という幻影〜
熊本市内の中学3年生の秋。
リビングの机の上に置かれた、戻ってきたばかりの模試の結果。
そこに印刷された「C判定」という文字を見た瞬間に、それまで流れていたテレビの音が急に遠ざかり、夕食の空気がにわかに重くなる。
親はため息を隠すように箸を動かし、子どもは逃げるように自分の部屋へ閉じこもる。
熊本の受験現場で、私はこのような光景を何度も、それこそ数え切れないほど見てきた。
誤解しないでほしい。
私はここで、「偏差値なんて気にするな」とか「志望校なんてどこでもいい」といった、生ぬるい綺麗事を言うつもりは毛頭ない。
偏差値は大事だ。
高校選びも、子どもの人生を左右する極めて重要な選択である。
熊高とそれ以外の高校では、進学実績も、取り巻く環境も、現実問題として大きく違う。
私自身、塾人として、子どもたちが1点でも多くもぎ取り、憧れの志望校に合格できるよう、日々泥臭く現場で戦い続けている。
だからこそ、あえて問い直したいのだ。
あの模試の紙に書かれているのは、いったい何だろうか。
それは、子どもの未来の限界でもなければ、人間の優劣でもない。
ただの「現在のデータ」だ。
目的地へ向かうための、カーナビの現在地表示のようなものに過ぎない。
それなのに、なぜ私たちは、あのたった2桁の数字に、これほどまでに家庭の幸福や自分の存在価値までをも支配されてしまうのだろうか。
理由はひとつしかない。
私たちが、偏差値を“現在地”ではなく、自分や我が子の“身分証明書”にしてしまっているからだ。
■ ラベルという名の安心
偏差値そのものは、決して悪ではない。
自分の現状を客観的に知り、次にどこを修正すればいいかを教えてくれる、極めて便利で有効な道具だ。
問題は、その道具に、私たちは勉強のデータ以外の「余計なもの」を乗せすぎてしまうことにある。
希望、不安、世間体、そして、自分の存在価値。
熊本では、これが特に起きやすい。
「熊高だから優秀」「済々黌だから立派」「第二、第一だから安心」という、高校名がそのまま人間の価値のラベルとして共有されている土地だからだ。
模試のデータが返ってくるたびに、
A判定なら、自分の価値が認められた気がして家の空気が明るくなる。
C判定なら、自分の存在をすべて否定された気がして家庭に冷たい嵐が吹く。
だが、データに一喜一憂し、振り回されている限り、受験はただの精神的な自傷行為にしかならない。
問題は偏差値を追うことではない。
偏差値という数字に、自分たちの価値まで乗せてしまうことなのだ。
■ 数字が隠しているもの
私たちは、本当に偏差値を上げたかったのだろうか。
志望校のランクを、どうしても上に上げたかったのだろうか。
胸に手を当てて、静かに考えてみてほしい。
本当に欲しかったのは、偏差値の連続した数字そのものではなかったはずだ。
「偏差値が高ければ、安心できる」と思っていただけではないだろうか。
誰もがヒエラルキーを気にするこの街で、四高というブランドを手に入れさえすれば、親である自分も、そして我が子の未来も、世間体から守られ、安心できる。
そう信じて、私たちは「安心の代用品」として、偏差値という幻影を追いかけていたのではないだろうか。
しかし、代用品で手に入れた安心は、常に「他者からの評価」に依存している。
だからこそ、数字が下がれば一瞬で消える。
高校受験が終わっても、今度は大学の偏差値、就職する会社の時価総額……と、私たちは一生、安心を他人から借り続けるために、数字の奴隷として走り続けなければならなくなる。
私たちが本当に求めていたのは、他人の物差しで測られる数字ではない。
その数字がいくつであろうとも揺らがない、あの「地面」だったはずなのだ。
次回、
【中学生時代の思い込み編③】〜四高信仰の正体〜。
熊本の保護者なら、誰もが一度は聞いたことがある、あの言葉から始めよう。

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