〜なぜ未来を信じられないのか〜
私が子どもの頃、周囲の大人たちはよくこんな言葉を口にしていた。
「真面目に勉強しておけば、将来大丈夫だから」
「いい学校に行けば、道は開ける」
「努力は必ず報われる」
もちろん、現実の社会はそんなに単純なものではなかったはずだ。
それでも当時の大人たちの背中には、どこか「未来は今より良くなる」「正解のレールに乗っていれば安心だ」という、未来に対する静かな信頼があったように思う。
だが、今の親たちはどうだろうか。
私たちは毎日のように、景気が良くなったという話よりも、大企業が倒産したというニュースを耳にする。
終身雇用の崩壊やリストラ、AIが人間の仕事を奪うという噂に怯え、大学を出たからといって決して安心などできない現実を、身を以て知っている。
真面目に生きていても、時代の荒波によって突然人生が揺らいでしまう。
そんな不確実な景色を、私たちは嫌というほど見せつけられてきた。
だからこそ、親たちは神経質にならざるを得なかったのだ。
この正解のない、冷酷な時代の中で、「我が子を、絶対に失敗させるわけにはいかない」と。
■ 恐れているものの正体
前回、私たちは親御さんの心にある「責任感の鎖」について見つめた。
子どもが部屋でスマホをいじっている姿を見るだけで、なぜあれほどまでに激しい怒りや焦りが湧き上がってくるのか。
それは、親御さんが子どもを信じていないからではない。
「今ここでスマホをいじっている」という小さな姿の向こう側に、「将来、激変する社会の中で食いっぱぐれ、困り果てている我が子の姿」という、巨大な未来の恐怖を先回りして重ね合わせてしまっているからだ。
親たちが本当に恐れているのは、熊高の不合格ではない。第二高校でも、熊本北でも、どこの高校に落ちることでもない。
「この子が将来、傷つき、困ること」そのものなのだ。
だから、管理したくなる。
だから、口を出して先回りしたくなる。
先回りしてすべての石ころを拾い上げ、失敗をあらかじめ排除した「完璧な安全ルート」の上を歩かせようとしてしまう。
しかし、ここで、私が17年間熊本の塾の教室で、子どもたちの人生を見つめ続けてきた人間として、どうしても伝えておかなければならない証言がある。
■ 人生は、管理できない
不思議なことがある。
私がこれまで見てきた何百人もの子どもたちの人生は、親が必死で避けさせようとした「失敗」によって壊れたことなど、ただの一度もなかった。
第一志望の高校に落ちた。
模試で最悪の点数を取った。
定期考査で平均点を大きく下回った。
その瞬間は、親子で血を流し、絶望の底にいるように思える。
しかし、彼らの人生を大きく変え、本当の意味で輝かせたのは、その失敗そのものではなかった。
その失敗という痛みのなかで、彼らが何を学び、どうやって自分の物語を歩き始めたか、その「その後」の姿だった。
親がどれだけ夜も眠れずにスマホを検索し、どれだけスケジュールを管理し、どれだけ口を酸っぱくして先回りをしても、私たちは子どもの未来をコントロールすることなど、絶対にできない。
なぜなら、未来とは本質的に、誰にも予測できないものだからだ。
私たちは、子どもを信じられないのではない。
未来が予測できないということ、人生は管理できないというその圧倒的な事実に、耐えかねているのかもしれない。
次回、
【親はなぜ焦るのか④】〜信頼とは何か〜
未来は予測できない。だからこそ、私たちはその手から何を放し、何を握り直せばいいのだろうか。

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