私の経歴等について~エピソード3~

学歴・経歴

1994年5月の第一日曜日。「24」のジャックバウアー的に言うと、今日は最悪の長い一日になりそうだ。今、週末嫁さんと「24」を、かなり遅ればせながら観ているので、こんな始まり方になりました。

試験2日前まで、体の異常を感じながら、昼夜逆転の勉強をしていました。ただ、それ以前から、おかしな行動はありました。例えば、模試を受けに行くとき、靴を右から履くか左から履くかを真剣に悩んだり、夜、急に「死」について考えだして慌てたり等々。

試験2日前は、興奮していたのか全く眠れず、ずっと最後の詰めの勉強。試験前日は、前日寝てないので眠れると信じて夜12時ごろ布団に入ったものの、全く眠れず、ずっとラジオを聞いていました(テレビは大家さんに預けていて2年間観てなかった)。

結局眠れずに、忘れもしない1994年5月の第一日曜日(母の日)、試験当日の朝を迎えました。これまでも、眠らずに模試を受けに行ったこともあったので、大丈夫と思っていました。試験は昼の1時半から3時間半で行われます。朝から試験だったら、そのまますっと試験会場に行けたでしょう。しかし、朝から1時半までの時間が長かった。どんどん気温が上がっていき、動機吐き気が始まり、緊張感からか鼻血も出て、一度布団でゆっくりしようと思ったものの、息ができなくなりました。いわゆる過呼吸ですね。

息ができずに、家の中に居られなくなり、思わず外に出ました。過呼吸が収まるように、1時間ほど家の周りをゼーゼー言いながら歩き回りました。しかし、どんどん過呼吸はひどくなるばかり。ゼーゼーいいながら、鼻血も出しながら歩いていたので、さながら「ウォーキング・デッド」の状態です。周りの人は怪訝んな目で見てましたが、そんなこと気にする余裕もありません。あまりにきつくて、すぐそばの西武新宿線の線路ではねられたらどんなに楽だろうとも考えました。あの光景は、今でも忘れられません。

家に戻り試験開始2時間前、もう無理だと思い、受験票を破り捨てました。これで受験できなくなったので、過呼吸も少しずつ収まりました。その後、実家の父に電話。ことの顛末を涙ながらに話すと、父は「お前が生きていてくれればいい。受験票を破ったのは正解だ」と言ってくれました。私は何度も「期待に応えられずに、ごめん、ごめん」と泣きじゃくりながら言っていました。

その後、埼玉の従妹の家に何とかたどり着き、2日間ほど眠りっぱなしだったそうです。埼玉で病院に行き、とりあえず安定剤をもらって落ち着いてきました。同じ年の従妹には、大学を休んでもらって看病してもらい、本当に今でも感謝しております。2週間ほど埼玉で養生し、新幹線に乗るのが怖かったので、父に東京駅まで迎えに来てもらいました。父とカレーを食べて、なんとか新幹線に乗れました。父の東京滞在時間は、カレーを食べた20分ほど。後から考えると、笑い話です。

実家に帰り、今度は病気との戦いが始まることになります。

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