私の経歴等について~エピソード8~

学歴・経歴

京都に降り立った私は、立命館大学衣笠キャンパスの近くにある、西園寺記念館で2年間を過ごすことになりました。そこは、ロースクールのため、記念館を臨時にキャンパスとしたもので、メッチャ小さな空間でした。近くにアパートを借り、金閣寺を真横に見ながらの通学です。

ロースクールは、授業が朝から夕方まで詰め込まれていて、パニック障害の私にとってはかなりハードな生活でした。なにせ、教室という狭い空間に閉じ込められるのですから。同期も20代前半から60代ぐらいまでと、多種多様な人々と交流を持つことになります。

始めは授業に集中しようとしましたが、なにせパニック障害。安定剤を服用しながらでは、集中できるはずもありません。それに加えて、パソコンという大敵に対峙することになりました。一度たりともキーボードを触ったことがなかった私としては、みんながノートパソコンをもってうろうろしている状況が、まるで近未来に来たような感じでした。レポートは全てパソコンで作成しなければならなかったので、まずはブラインドタッチから始めました。上書きの意味が分からず、作成したレポートが消えてしまうのではないかという恐怖で、書いてはプリントアウトしと訳の分からないことをしてました。

同期がサクサクと私の10倍ぐらいの速さでレポートを書き上げ、新司法試験に向けての勉強をしているのを見て、とにかくロースクールを卒業することだけに気持ちを切り替えました。1期生ということもあり、かなりの司法試験上位落ちの同期が多く、新司法試験でも簡単には合格できないなとかなり不安になりました。

私生活では、私は同期の丁度中間の年齢にいたので、年下年上のどの同期とも仲良くなれました。とくに仲の良かった4名とは、一緒に夕飯を食べに行ったり、PLの花火大会やルミナリエを見に行ったり、男4人で泊りがけで温泉に行ったり、明け方までカフェでバカ話をしたりと、大学時代を取り戻したような感じで楽しかったですね。その中の一人は、私のアパートの隣の部屋に引っ越してきて、毎晩行ったり来たりして充実した生活でした。

年下のクリスマス会等の催しものにも参加させてもらい、かなり幅広く交流をしていました。まぁ、若手と接していれば、良い女の子に出会えるのではないかという下心があったことは否めませんが。実際、8歳ぐらい離れた女性と2人きりで食事に行ったり、鴨川で花火をしたりと、「小さな恋のうた」もありました。成就するには至りませんでしたが、その頃に流れていた大塚愛の「プラネタリウム」を聞くと、今も甘酸っぱい気持ちになります。

このように安定剤を服用しながら、同期から悟られないようにして生活していました。そのため、何か行事があると、「ジョニーを呼べ」のようなプチ人気者になれたと思います(ロッテのピッチャーで黒木という選手がいて、ニックネームがジョニーだったので、若手からはそのように呼ばれていた)。

卒業式は、大学の卒業式に出ていなかったので、出席しようと思っていました。しかし、卒業式当日、第一回WBCの決勝が行われていたこともあり、隣の友人と最後まで見て、どちらもジャージで卒業式に慌てて出たことを覚えています。卒業証書をもらう時の、大学教授の「またお前らか」という苦虫を嚙み潰したような顔は忘れられませんね。

本当に充実したロースクール生活を送り、楽しかったのもつかの間、新司法試験が5月に近づいてきていました。ほぼ授業が終わった年明けから受験までは、また昼夜逆転の生活が始まり、安定剤を服用が4倍になっていました。ここから、私の「京都大火」が始まりました。

タイトルとURLをコピーしました