私たちは長い時間をかけて、親子の心を整えてきた。
他人のスコアボードを下ろし、過剰な責任感のハンドルを手放し、点数の悪かった日にこそ静かにスープを出せる、帰ってこられる場所を作った。
心を縛るすべての呪いを解いた今、読者であるあなたに、私は改めて問い直したい。
では、そもそも私たちは、一体何のために受験をするのだろう。
熊高に受かるためだろうか。
我が子に「安心な未来」を買い与えるためだろうか。
いや、違う。断じて違う。
私たちは、もっと大きな、もっと途方もない何かのために、今、この机の上の戦いに挑んでいるのではないだろうか。
厳しい現実を言おう。
「この高校に入れば安心」などという場所は、この世界のどこにも存在しない。
同じように、安心できる大学も、安心できる会社も、最初から存在しないのだ。
社会へ出れば、答えのない問いと、不確実な未来が延々と続いていく。
だからこそ、ここで私は高校受験の「正体」を、17年の現場の結論として定義したい。
高校受験とは、志望校の合格証書を奪い合うゲームではない。
人生で初めて、「自分で目標を決め、自分で努力し、その結果を自分で引き受ける」ための、最初の実戦訓練なのだ。
■ 15歳が初めて握る、人生の舵
これまでの人生において、子どもの世界の大部分は「与えられたもの」で満たされていた。
親が用意したご飯を食べ、決められた地域の小学校・中学校へ通い、決められた時間割に従う。
しかし、15歳の高校受験は、全く違う。
「私は、あの高校へ行きたい」
人生で初めて、子どもが自分の意志で「目的地」を掲げる。
そして、その目的地と現在の自分の距離(順位や偏差値)を測り、どうすればその距離を埋められるかの計画を立て、誘惑に負けそうになりながらも泥臭くペンを動かす。
そのプロセスの中には、思い通りにいかない日々があり、挫折があり、作戦の修正があり、そして再挑戦がある。
気づくだろうか。
この「目標を持ち、計画を立て、失敗し、修正し、再挑戦する」というサイクルは、大人が社会で生き抜くために必要な「人生の営み」そのものなのだ。
高校受験は、ゴールではない。
これから始まる長い人生という航海の、最初の荒波にすぎない。
だからこそ、私たちは受験というシステムをただ恐れるのをやめて、このシステムを「我が子が自立した一人の人間として立ち上がるための、最高の練習台」として使い倒せばいいのだ。
■ 主人公は、合否の先を生きている
熊高を目指していい、学年トップを目指していいと私が言ったのは、その肩書があなたを幸せにしてくれるからではない。
「熊高という高い壁に、今の自分が本気で挑む」というプロセスを踏むことそのものが、子どもの地頭を鍛え、精神を研ぎ澄まし、何より「自分の人生を自分でコントロールしている」という強烈な当事者意識を育むからだ。
主役は、合格・不合格という二文字ではない。
その合否の先にある、数十年の人生を自分の足で歩いていく、子ども自身だ。
受験神話の幻想から、今すぐ目を覚まそう。
私たちは、合格という名の「安心」を買いに行くのではない。
不確実な未来に向かって、傷つきながらも、それでも自分の足で歩き続けるための「強さ」を、この受験という訓練を通じて手に入れるのだ。
次回、
【受験とは何か②】〜合格は成功ではない〜
私たちは、第一志望に合格した瞬間に、燃え尽きていく子どもたちをあまりにも多く見てきた。
熊高に入って苦しむ子、第二に入って覚醒する子。合格の鐘が鳴り響いたその瞬間に始まる、もう一つの現実について。

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