前回までは、妹の陸上競技を通じて、陸上の指導に当たるようになったところまで書きました。中学に入っても、妹は順調に記録を伸ばし、中学2年の時には全国都道府県女子駅伝メンバーの次点までなりました。この年熊本県は、大会新記録で初優勝を飾ったので、この頃の熊本県のレベルはかなり高かったですね。
ただ、最終学年では、標準記録を突破できず、目標にしていた全国大会には出られませんでした。高校受験のために、夏に引退しましたが、当時熊本県で1番の高校だった千原台高校から誘いもありました。しかし、大学入試を考えて、東稜高校に入学しました。翌年の全国高校駅伝では、千原台高校は全国2位になっているので、少しは惜しかったかなという気持ちはありましたが。
高校受験に関しては、私は全くタッチしませんでした。勝負は大学受験だと考えていたので、普通高校ならばどこでも良いと思っていたからです。私が教えれば、そこそこの大学には合格させる自信があったこともあります。高校では朝課外・夕課外は免除してもらい、朝10キロ・夕方10キロの練習をしてました(もちろん、私も一緒に走っていました)。このようなことから、東稜高校は緩いと現在の生徒さんにも言っております。
半年間ブランクがありましたが、私とマンツーマンの練習で、1年生の頃は中学時代よりも力が付きました。しかし、マンツーマンの練習では、気持ちが続かないと思い、2年生の頃からは、中央女子高校(現在の中央高校)の練習や千原台高校との合同合宿等に参加しました。千原台高校の監督からも、かなり力が付いていると言われていましたが、結局高校では良い成績は残せませんでした。やはり個人指導では、精神的になかなか難しい面がありました。特に、血縁関係があると尚更難しいです。妹は、中学時代同様、夏には引退して、大学受験に入りました。
「都落ち」してから7年間、妹とともに陸上競技に没頭し、失敗すれば修正しの繰り返しでした。その経験が、現在の塾での計画等を立てるときの役に立っています。もし妹が陸上競技をしていなければ、精神的に落ち込んでいた私はどうなっていたかを考えると、本当に妹に助けられた7年間でした。私にこのような充実した期間を与えてくれた妹には、感謝してもしきれません。
さて、その間、私の生活はどうだったのかというと、まずは社会復帰するために、電車やバスに一人で乗ることから始まりました。2年間は1秒たりとも勉強していませんでしたが、陸上競技に携わることで、受験勉強を再開したいと思うようになりました。受験予備校の自習室で勉強するためには、バス電車を使って通学する練習をする必要があったからです。
しかし、始めは父に予備校に連れて行ってもらっても、エレベーターに乗ることすらできませんでした。それを何度も繰り返し、ようやく自習室で勉強できるようになっても、途中で息が苦しくなり、父に迎えに来てもらうことが度々ありました。ひどい時は、30分で帰ることも度々でした。何度も何度もそれを繰り返し、安定剤を服用しながらなんとか自習室でも勉強できるようになりました。
自習室に通うようになって、同じ世代の受験仲間もできました。ただ、病気と悟られるのが怖く、あまり深い関係は持ちませんでした。多分、他の受験仲間には、ノリが悪い奴と思われていたと思います。そのような状況でも、勉強を再開して2年後には、1次試験に合格することができました。もちろん、父同伴での受験でしたが。その後も、受験は続けましたが、病気のせいで勉強時間が取れなかったので、1次試験に1~2点差で落ち続けました。
土日は妹の競技会や大会があり、ほぼ毎週水前寺競技場で過ごしてました。保護者の方や中学・高校の監督さんとの交流も徐々に深まっていき、「妹の兄」という肩書でそこそこ知られる存在になりました。熊本陸上競技会の方からも、指導者のいない中学を指導してみないかとか、警察官の保護者の方から、「警察に入って、陸上部の監督になりませんか。学歴的にもキャリアになれますよ。」とか誘いを受けました。
しかし、警察のキャリアというと、犯人が立てこもった時などに「突入っ!!」など極限の選択を迫られるのは耐えられないと思い、丁重にお断りしました。冷静に考えると、ドラマの見過ぎで、そのような場面に遭遇することはそうそうないのですが。まだ、弁護士になる夢があったことが大きいですね。
本当に迷ったのは、中央女子高校に誘われたときですね。前述したように、妹が同校の練習に週3回ほど参加させていただいていたこともあり、監督と一緒に練習を見ることが多かったんですよね。毎週競技会で全レースを見ていたこともあり、そのころには、選手の走り方で、その選手の性格やポテンシャルが分かるようになってきました。そのため、監督からは、まだ無名の選手でいい素質を持っている生徒がいないか等、ちょっとしたスカウトまがいのことを頼まれたりもしていました。年齢も近かったこともあり、本気で「中央女子高校の職員になって、その途中で教員免許を取り、一緒に指導しませんか」とのお誘いを受けました。この時は本当に迷いました。
大学の時に教職課程を取っていれば、すんなりとお誘いを受けていたかもしれません。しかし、当時の精神状態では、事務等をこなしながら、教職課程を取るのは難しいと考えて、お断りさせていただきました。今思えば、良い選択肢だったのかもしれません。まぁ、弁護士になれなかった今だからこそ、そう感じるのかもしれませんが。
このように、陸上競技に携わった7年間は、色々な人との交流があり、妹との練習で体力も付いたこともあり、本当に充実した7年間でした。大学を出てすぐに社会に出た方よりは、病気でできたモラトリアムの期間は人生を楽しめたと思います。ただ、その後も「いつかは陸上の指導者になりたい」と考えて、いつでも陸上界に復帰できるように、「月刊 陸上競技」を毎月購読し、今年で25年目になります。これを読むことで、1ヵ月間は楽しめるので、お金のかからない良い趣味です。また、全てのテレビで放送される陸上競技・マラソンをビデオ・DVDに録画して、多分400本以上になっております。50歳を目途に、どこかの指導者になりたいという夢を持っています。
この7年間で、社会復帰できました。薬の量も通常の3倍から減りました。しかし、まだ通常の2倍の量の薬を服用しての生活は続きます。妹の陸上引退を境に、今後は怒涛の「妹の受験と僕の受験」の段階へと、話は進んでいくことになります。