私の経歴等について~エピソード7~

学歴・経歴

一次試験の不合格が決まった後は、「過去問解析講座」を聴き続け、10月からは二次試験の論文模試を受け始めました。11月に30歳の誕生日を迎え、その後も順調に論文模試、年明けの3月からは一次試験のマーク模試を受けました。

この頃は、毎日7時間ぐらい自習室で勉強を行い、大学2年生以来の勢いが戻ってきました。それに伴い、薬の量は3倍に戻ってしまいました。二次試験合格を第一に考えていたので、一次試験ギリギリまで論文の勉強を行い、一次試験では予備校の合格ラインにピタリ到達しました。しかし、合格者に私の番号はありませんでした。予備校の予想よりも、本番は1点高い点数が合格ラインになってたんですね。

それでも、2年間計画で合格を目指していたので、すぐに来年の試験の勉強を始めようとしていました。そんな矢先、来年度から、今k・小室さんで話題になっている、法科大学院(ロースクール)が、本格的に始まると、新聞等で大々的に話題になるようになってきました。

こんな制度は金持ちしか司法試験を受けられなくなり、多様な人材が法曹になることができなくなる悪制度だと考えてました。しかし、ロースクールを卒業すれば、7割が新司法試験に合格できるという触れ込みは、魅力的なものでした。それまでの司法試験は、合格率3%です。ロースクールに行ったほうが、合格する可能性が高まるのは、火を見るよりも明らかです。また、新司法試験が始まると同時に、いままでの司法試験が徐々に無くなっていくということでしたので、今後今までの司法試験を続けていいのかという不安もありました。究極の決断を迫られたわけです。

家族会議で出した答えは、ロースクールへゴー!!というものでした。しかし、ロースクールへの合格にはいくつかの壁がありました。まず、大学入試では有名なセンター試験が、ロースクール用に作り替えられ、それを受けなければならないこと。公務員試験のような数的処理や一般知能も試験範囲に含まれており、前々から準備している受験生からはかなり遅れを取っていることになります。すぐに、数的処理等の講座を取り、慌てて準備を始めました。かなり多くの模試を受け、本番を迎えました。結果は100点中75点。7割を超えたことで、中堅大学ならば受験できる状態になりました。

次の問題は、ロースクールは2年コースと3年コースがあり、3年コースには小論文が入るということでした。つまり、法律の論文と小論文を一緒に勉強しなければならないということになります。ただでさえ、薬を3倍服用しながら勉強していたのに、プラス小論文も勉強しなければならないのです。ただ、小論文は高校時代から得意でしたので、そう勉強はしなくて良かったです。

そして、12月からは怒涛のロースクール受験が始まります。一番最初に行われる神戸学院大学には、かなりの受験生が滑り止めで受けられることが予想されました。とりあえず、合格すれば落ち着くため、受験することに決めました。忘れもしない12月クリスマス前後、母とともに関西に上京し、1日目は3年コースの受験をし、2日目は2年コースの受験をしました。神戸の街並みが明るかったことと、母と有名な牛タンの店でシチューを食べたことしか覚えてませんね。しかし、結果は不合格。3年コースにも入れなかったことを考えると、かなりの激戦になると気を引き締めなおしました。そのため、3年コースが殆どの久留米大学や西南学院大学の受験は辞めることにしました。

1月からは、立命館大学・関西学院大学の2年コースを受験しました。隔週で試験があったため、毎週今度は父を同伴して、関西に行き来していました。また、地元の熊本大学も受験しました。結果は、全大学院合格、しかも立命館大学院には奨学Bで合格したので、授業料が半額免除になります。熊本大学の2年コースを決める試験がありましたが、妹も立命館大学に行っていることもあり、近くにいると安心ということで、熊本大学の試験は受けずに立命館大学ロースクールに入学することに決めました。

4月、少しの不安と大きな期待を胸に、京都駅に降り立ちました。ここから、「るろうに剣心」風に言えば、「京都大火編」の始まりとなります。

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